師走の夜の考え事
なんか最近、ネット上で「自己肯定感」という単語が流行っている?らしく、
ふと、つべを眺めていると以下の動画が目に留まったので見てみました。
なるほど、イチロー氏のいうこともなんとなく共感できる。
しかしネットを見ると「とにかく自己を肯定しろ」っていう、なんかこう、あまりにもリスクが高い意見表明が多かったので、もやもやしていたところもありました。
そもそも「自己肯定感」という言葉が曖昧過ぎて解釈が異なるのがあれだなぁと思ったので、今回はその解像度を自分なりに高めてみます。
時間があればお付き合いください。
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■そもそも「自己肯定感」ってなんぞや。
言葉の通り読み取れば「自己を肯定する感情」でしょうか。wikiによるとこう書いてありました。
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自己肯定感(じここうていかん)とは、自らの在り方を積極的に評価できる感情、自らの価値や存在意義を肯定できる感情などを意味する言葉である。しかし、後述のように定まった定義はなく、他の類似概念との弁別も充分とは言えない。
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つまりは…
「俺はできるんだ!俺は間違ってないんだ!俺は正しいことをやってきてるんだ!だから俺は自分を正当化できるんだ!」
いろいろなものをそぎ落として言いたいことだけを残して書くとこんな感じ?
(大いに間違ってると思うので異論は歓迎します。
いや、それはちょっと違くね?
そもそもなんで自己肯定感なんてものを持つ必要があるのか、そんな感情必要なのか?ってあたりを紐解かないと抽象的な議論ばかりが先行しちゃうなぁと思った次第でした。
■前提として、自己肯定感って必要なんでしょうか?
これはその人のバックボーンとかにもよるので、一概にこう!とは言えないと思うんですが、
個人的には「必要な時に自分自身を肯定してあげることは大事」であるとは感じました。
一方で、「過度に自分自身を肯定しすぎるのは危険」であるとも思ったりします。
自分自身を否定しすぎるあまり、自身を傷つけ精神的にも追い込んでしまう、だから自信を肯定する必要がある。
というのは非常によくわかります。だからこそ、必要な時に肯定してあげることは大事なんだと思います。
しかし、肯定するにも限界があると思っていて、なぜ「自分自身を否定しなければならないのか」「自分自身が否定されるのか」ということを考えるステップを無視して肯定するのは傍若無人ではないかと。
もちろん、とてつもなく理不尽な理由で自身を否定されるパターンもありますが、そもそもそういう状況だと自己肯定感とか言ってないでそもそも自身を防衛しろって状況なので、同一の理論で考えるのは不自然であると感じます。
(ちなみにそういう時は全力で逃げて、全力で逃げる自分を認めてあげるのが大事。肯定するんじゃなくて認めるのが大事。
イチロー氏も言ってますが、「振り返る」という行為をするのによい材料であり、自分自身を成長させる糧でもあるという話なんでしょう。
そういう意味でも、要は現実から目を背けず、そういう状況をしっかり受け止めて、次につなげることが大事なんじゃないでしょうか。
現実から目を背けるために自身を肯定するって、それこそイチロー氏が言う「偉そうな人間」につながる話で、確かにそういう人とは関わりたくない。
■「否定」って必要なくない?
さっき「自分自身を否定しすぎるあまり、自身を傷つけ精神的にも追い込んでしまう、だから自信を肯定する必要がある」と書きました。
そもそものトリガーである「否定」がなければみんなハッピーなんじゃ?っていう疑問が出てきます。
個人的にはこの世界で「適応していくためには」必要であるとは思います。
組織の中での適応もそうだし、言ってしまえば無人島で一人で生活する状況での適応も同じです。
否定が必要というか、そこから先の反省と改善が大事なんでしょう。
確かに否定でとまっちゃう人がいるのも事実。それはそれでいいと思う。(本当にそう思う
これを乗り越えるために自己肯定感が必要、ということなら理解できる。
ここで否定されたことで自身を傷つける人たちもいて、そういう人たちの助け舟として「自己肯定感」があるというのはよくわかる。
こういう過程をすっとばして「自己肯定感」だけが前面に出てくるのは、やっぱ違和感を覚えるなぁ。
この「乗り越えるための自己肯定感」もある意味適応のための感情と整理できます。
反省と改善もそうですが、この世界への適応のためにも現実を受け止めることは大事なんじゃないでしょうか。
ちなみに、否定の仕方が過激とか過剰ってのはまた別問題なんでそういう話はここではナシで。
※反省と改善が大事って書いてますが、なんでもかんでも反省と改善をしなきゃいけないというのも違うと思う。
反省と改善ってすごいエネルギーを使うことで、そこにモチベーションや動機がないと絶対に続かないし、続けたとしても疲れてゆくゆくは潰れちゃう。
だから、自分が反省と改善をしたい事象だけそうすればいいんだと思う。
仕事でそういう気持ちにならなくて、趣味だとそういう気持ちが沸き起こるのは、そういうことなんでしょう。
■「肯定」って、ほかに何かいい日本語ない?
人の数だけ答えがあるので結論は出ないし、ここから書くのは一個人の意見であるという前置きがあったうえで。
「自己肯定感」って、なんか使っててしっくりこない日本語です。
ですが、イチロー氏も言ってますが「常に自分自身に不安を感じる」っていうのはすごいしっくりきました。
なんでかっていうと、自分がまさにそうだからです。
こう言ったらすごい反論を呼びそうですが、実際自分は常に自分自身に不安というか疑いの目を持っています。(これは本当です
普段そうじゃない立ち回りしてるように見えるかもしれませんが、実は根は臆病だったりします。
じゃあなぜ、そうじゃない立ち回りをしてるように見えるのか。
それは、過去の自分の人生の実績から「ここまではやっても大丈夫であろう」という線引きができてるからです。しかし、不安とか疑いの気持ちをゼロにしてるわけではありません。
大体8:2ぐらいで大丈夫だろうと思いながら立ち回ってます。
で、「ここまではやっても大丈夫であろう」っていう判断・思考は上記の「自己肯定感」に近しいんだろうなぁと思いながら動画を見てたりしました。
これは自分を肯定しているのではなく、過去の人生経験から自分のやることに自信を持ててるだけなんですが、こういうことを人は「自己肯定感」というのかも、と感じました。
肯定って結果でしかなくて、それが手段であるかというとそれは違うかなぁとも書いてて思います。
自分自身に自信を持つことは非常に大変ですが、しかしそれはいろいろ悩み、試行錯誤して、苦く苦しい時間を経験した結果、自信は手に入るものです。
その先に肯定があるんであって、最初から目の前に持ってくるのは、やっぱりなんか違和感。
っていうかさ…
どんな狭いコミュニティの人でさえ、特別な感情を持たない限り、
たった一人の人間の言動・行動をそこまで気にしないよね
だから、「自分の外の評価(特に否定される)」ってそんなに重く受け止めないほうがいいんじゃないかな…
※ちゃんと振り返るのは大事ですよ!上にも書いてる通り
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こういうようわからん抽象的な言葉に乗せられて人の考えに依存してしまう人がいるんだろうなぁと思うと、
ネットの軽さと重さのバランスは難しいなぁと思いました。
おわり。
人と出会うということ
前回の日記で書いた読書について、熱が収まる気配がありません。
むしろ、どうにかして読書時間を作りたいという思いが強く、割とそういう時間を設けています。
このペース、どこまで続くか。合唱、ゲームに続く第3の趣味として定着すればいいな。
本を読んでて思うのは、以前と読み手の自分に変化があるってこと。
大きく二つ。
一つ目は、先読みすることを覚えたってこと。
皆さんからすれば当たり前だと思いますが、読みながら先の展開がどうなるかをある程度想定するってこと、あると思います。
実は、過去は自分はそういう読み方をしていなかったようです。(もう昔のことだからあまり覚えてない
どちらかというと文章にかじりつき、一文一文を読んでいくスタイルで、先の展開なんかはあまり気にしない読み方だった記憶があります。
目の前の文章とその次に続く文章が作り出すストーリーの道筋を丁寧に追っていく、そんなスタイルだったんでしょう。
今は、なんでかわからないけど、先の展開を予想する余裕があります。
特に意識するでもなく、自然と「あーこういう展開になるのかなー」って考え始めてます。
「この文章は先のこういう展開を導くためのものかな?」みたいな観点でも読んだりしてます。
その展開が当たる当たらないは置いといて、そういう視点を持ちながら本を読んでいる自分にちょっと驚いたりしました。
「あー、そんな読み方してるな、昔はこんなんだったか?いやそんなことなくね?…いつからこんな読み方できたの?俺…」
とまぁこんな感じです。
なんだろう。大人の余裕か?(絶対違う
とにかく、過去の記憶と今の実践方法の違いから、自身の変化に気づけるのはなかなか重要な機会です。
そういう自分に出会えるって、いい話じゃんねぇ。
二つ目は、ネガティブな感情と向き合うってこと。
これも昔の記憶にはないんですが、現在、本を読んでてマジでむかつく時があります。
その対象は物語の中で描かれる登場人物であることがほとんどですが、本当にむかつくんです。
マジです。本気と書いてマジ、ぐらいにはむかついてます。怒ったりイラついたりすることがあります。
本を読んでいるとどうにもポジティブな感情の揺らぎが多かった印象なんですが(そういうのしか記憶に残らないだけかもしれませんが)、
今回のようにネガティブな方向にも揺らぐのは初めての経験なんじゃないかな。
そして、読んでてむかつくときにはその感情から逃げずに向き合うようにしてます。
つまりはむかつきながらも読み続けるってことです。
これ、なかなかつらいんですよ。だってむかつきながら読み続ける道理ってないじゃないですか。
心の中で拳を握り何かを殴りたくなる、そういう衝動が大きくなっていくのを受け入れる合理的な理由が自分には思い浮かびません。
とはいえ、そういう感情が出てくるのも自分自身だし、ここは逃げずに向き合おうと思い立ち、今もそうしてます。(だいぶ非合理的だと思ってます
面白いのが、こうしていくことで、現実でネガティブな感情を持つことが減ったなーと思えることです。
多少のことでむかつかなくなりました。それよりも豊かな心をもって物事を見れるようになってるような錯覚があります。
おそらくは、そういう負の感情に触れて消化することで現実の出来事を俯瞰して見れるようになってるんじゃないか、と分析してます。
新しい自分の視点を見つけられるのって、いいことじゃんねぇ。
そんな感じの読書生活を綴ってみました。
読書は出会いと近しい。それは自分との出会いであったり、それこそ人との出会いだったり。
物語の登場人物、ひいては作者と出会い、コミュニケーションしていく過程がたまらなく面白いと感じてます。
第3の趣味として定着するか、自分でも楽しみです。
では、次の更新でお会いしましょう。
さぼるというのはこういうことだ
更新頻度を増やしたいと書いてからもうすぐ1年が経とうとしています。
いやー、なかなかの更新っぷりですね。(自虐
早いもので2023年も1/12が過ぎてしまいました。
昨今のことを思い返すとまさに光陰矢の如しであり、あっという間に月日が過ぎ去ってしまうことを改めて自覚する毎日です。
こうやって今年も過ぎ去っていくんだろうと予想しつつ、だからといって意識も高くないので無駄のない時間を過ごそうとかも思いません。
これからもウダウダと過ごしていくことでしょう。
今年がいままでと違っていることの一つに、読書熱が高いということがあります。
たまたま年明けに読んだ本が当たりだった可能性もありますが、それでも「天上の葦」は素晴らしい本でした。読後感がすごい充実してました。
序盤から引き込まれるストーリーで伏線を匂わせる描写が多く、それらが確実に回収されていく構成には舌を巻きました。
そして読み切った時の心に残った感情は筆に起こすには難いものですが、しかしすがすがしいものであったことを覚えてます。
なんか、久々に本を読むことに感動したんだと思います。
その流れもあり、今も次の本を空き時間に読み耽ったりしています。
このペースで1年間読み続けられたらいいなぁ。
では、次の更新でお会いしましょう。